久福山 本圡寺(ほんどじ)
- 所在地
新潟県燕市佐渡山564
TEL 0256-73-2248 - 住職名
41世 宮野英孝 - 開山
善證院日春 - 寺宝什物
- 交通
JR越後線・弥彦線吉田駅からタクシーで約15分
沿革
本土寺は、吉田町(旧西蒲原郡吉田町)で、一番古い歴史をもつ。
1331年、鎌倉幕府の重臣であった越後守護大名(茨曽根)里見大膳亮義益氏に招かれて、信州の諏訪地方から諏訪部隼人氏が一千石を与えられ佐渡山に入り、佐渡山の庄館主となった。この時に、十数人の家臣団を引き連れてきた。その後佐渡山から、仙木、米納津、白根郷の草分けたちが佐渡山を拠点に移住していった。彼らは、諏訪湖周辺の諏訪地方から来たので、諏訪大社の信仰も持ち込んだ。佐渡山には諏訪神社がある。今の米納津神社も以前は諏訪神社という名前だった。
本土寺は元々天台宗に属し、「久福寺」という名称だった。当寺は佐渡山城館の菩提寺で、当時は鐘楼、番神堂、前寺等を持つ大きな寺だったという。
本土寺周辺では山伏たちが集まり、加持祈禱をしていたと想像される。
縁起(由来)
文明元年(1469)壽量坊日久が住持の折、法華宗総本山本成寺5世日顕聖人により改宗し法華宗末寺となった。同17世日俊聖人により、寺号を久福山本土寺と改称した。当時は寺中に数坊を有し、且つ地頭の位牌所であった。
その後天文17年(1548)の越後一揆(天文の乱末、越後では上杉定実の時宗丸こと伊達重實推進派と長尾春景や揚北衆らの反対派の戦闘があった。(反対派が勝った。)にて本坊・塔頭共に焼失、更に天正8年(1580)の御館の乱(上杉謙信公死後、家督をめぐり景勝と景虎との間で起きたお家騒動。景勝が継承。)にて宝物等もすべて失った。寛文8年(1664)再興。
昭和36年(1961)第二室戸台風で本堂が倒壊したが、26世等雨院日澍聖人を中心として少数の植徒ながらも三宝護持の念厚く、念願の再建を果たした。
また御本尊を確認した結果、永世14年(1517)で500年ほど前と判明した。
年中行事
- 正月
年頭祈願会
- 3月
春季祈願会
- 7月
開山会
- 8月
孟蘭盆施餓鬼会
- 11月
高祖御会式
- 12月
大師講
本圡寺の所在地
お問い合わせ
栄林山 久福寺 〒953-0061 新潟県新潟市西蒲区馬堀806
でんわ 0256-73-2248 または 080-3149-6440
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